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    神さまに手を合わせることと瞑想は似ている(と、思う)

    立春の日、いつも手を合わせている神社で開運厄除の祈祷を受けてきました。
    厄災を退け、幸運に恵まれるようお祈りしました。

    祝詞を授かっているとき、あたたかなエネルギーが降り注いでくるのが分かりました。
    神さまはわたしたちを見守ってくださっている。
    それを実感して胸がいっぱいになりました。

    ここ1年半くらいでしょうか。
    1日と15日、あとは立春など区切りの日。
    あとは自分で行きたいとひらめいた時。神社にに通うようになりました。


    通うたびに、自分の軸が安定して、ぶれにくくなった気がします。

    もちろんブレることもあるのですが、神社で手を合わせるとうん、大丈夫。
    という思いが内側から湧いてきます。
    守られている、大丈夫という感覚が強くなってきているのです。

    神社に興味を持ったのはもちろん初めてではありません。
    遠い昔、20代の頃。神社巡りに凝っていた時期があります。


    当時、知り合いのヒーラーさんや見えない能力を持つ方で神社に詳しい方が数名いて
    「なつこさんは〇〇神社に縁があるから、そこにいくといいよ」なんて教えてもらうことがあり。
    影響を受けて全国の神社巡りをしていました。

    ただ、その時期はお恥ずかしながら、ここに行けば不思議な体験をできるかも、
    何か見えない能力が開花するかも、という期待ばかりが先に出て
    純粋にご縁ができたことに感謝する気持ちは強くなかった気もします。

    もちろん期待があることは悪いことではないですけどね。
    今だって悪いことを退けていい流れに恵まれたい気持ちで神社に通っています。

    ただ、若い頃は感謝の気持ちより先に、〇〇神社に行くことでスピリチュアルな優越感を
    持ちたかったのだと思います。
    神さまはそんな自分も受け入れてくれましたが。。。

    が、時が経ち、ここ数年は手を合わせられること、ご縁を持てることにまずは感謝して
    手を合わせるようになりました。


    ありがたいです。 

    神さまに手を合わせることと瞑想することは似ている、と思います。

     

    瞑想も最初は不思議な能力を得たい、何かを得たい、悟りたいという一心でしていました。

    それがいつからか、瞑想を見えない何かに捧げる意識で瞑想するようになりました。

     

    何に?
    自分自身に。

    見えない領域で、世のことわりをととのえる、はてしなく深い存在に。深淵なる瞑想の世界に。

     

    瞑想の神さまというのがいるなら、その神さまに自らを捧げる気持ちで瞑想しています。

     

    神さまに手を合わせることと瞑想と。

     

    どちらも自分にとって大事な時間です。

     

     

    ※もちろん、神社巡りと同様で、瞑想も目的があって行うのが自然です。
    不思議な能力を得たいと純粋に思うなら、それを目指して瞑想してくださいね。
    必要ならもたらされるだろうし、必要でないならもたらされない。それだけです。

     

    当時のわたしの場合は、劣等感を埋めるために不思議な能力を望んでいた節があるので・・・


    何かを強く望むよりも、ただ感謝しながら瞑想する方が自分にとってラクで自然で、
    何より今の自分にフィットしているという話です。

     

    わたしの場合はその劣等感を埋める必要がなくなったのかな。
    今が一番ラクで生きやすいです。